翻訳コーディネーターは「通訳者」でもある ~医療翻訳の現場で「指示を整える」という仕事~
翻訳コーディネーターの仕事というと、「案件の割り振り」や「スケジュール管理」を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし実際の現場で、私たちが最も神経を使っている業務のひとつが「指示を整えること」です。
クライアントからの依頼や指示の多くは、その会社の中では当たり前に通じる、いわば「社内言語」で書かれています。プロジェクト名の略称、部署独自の用語、暗黙の前提条件など。社内では説明不要でも、外部の翻訳者にとっては初めて目にする情報であることも少なくありません。
同じ翻訳でも、クライアントごとにルールは違う
さらに難しいのは、同じ作業に見えても、クライアントごとに進め方や優先順位、品質基準が微妙に異なることです。
例えばCATツールを使用する翻訳でも、ある会社では「100%マッチはそのまま使用可」とされている一方で、別の会社では「必ず全セグメントを見直すこと」とされている場合があります。また、参照資料が提供された際にも、ある会社では「用語集最優先」、別の会社では「既存訳との整合性重視」とされるなど、判断基準が異なることがあります。
こうしたルールは毎回明確に指示されるとは限らず、「前回と同じ作業でお願いします」という一言で省略されることも少なくありません。それすらないこともしばしば。もちろん、これは決して悪いことではなく、「細かく説明しなくても、前回と同様に進めてくれるだろう」という信頼の表れでもあります。こうした信頼の積み重ねが、継続的な依頼、いわゆるリピート案件につながっていくのだと思います。
ただし、お互いの認識に齟齬がないよう、事前の確認は欠かせません。
翻訳者が迷わない案件にするために
作業内容は似ていても、判断基準が違えば、翻訳者に伝えるべきポイントも変わります。そのためコーディネーターは、翻訳者へ打診する前に一度立ち止まり、必要な情報が揃っているかを確認します。
- データは足りているか、翻訳範囲は明確か
- 参照資料の役割(参考か、準拠が必要か)は整理されているか
- クライアントの希望スケジュールは現実的か
- 指示文に誤解が生じる可能性はないか
クライアントからのメール、過去案件の履歴、翻訳者の目線。その間を行ったり来たりしながら情報を整理し、曖昧な部分を確認し、必要に応じて説明を補います。
クライアントの指示は、必ずしも整理された形で届くわけではありません。複数のメールにまたがっていたり、口頭説明が前提になっていたり、前回案件の記憶が共有されているものとして書かれていたりすることもしばしばです。それを第三者が読んでも理解できる形に「再構築」するのが、コーディネーターの役割です。
届いた指示を、そのまま転送することは簡単ですが、それでは翻訳者は迷います。迷いが増えれば確認作業も増え、結果として作業効率や品質にも影響します。だからこそ、内容を整理し、指示をかみ砕いて伝えることに時間をかけています。
翻訳者もまた、複数の「社内ルール」の間で仕事をしている
多くの翻訳者の方は、複数の翻訳会社と取引をされています。つまり私たちと同様に、日々さまざまな案件を行き来しながら仕事をしているということです。
翻訳会社ごとに、使用するCATツールやマッチ率の考え方、スタイルガイド、用語集の扱い、納品形式などが異なります。翻訳者の方々は、そうした複数の「社内ルール」の間を行き来しながら作業を進めていると言えるかもしれません。
だからこそ、案件ごとに指示が整理されているかどうかは非常に重要です。必要な情報が明確に示されていることで、翻訳者は余計な迷いなく作業に集中することができます。
おわりに
コーディネーターは、クライアントと翻訳者の間に立つ「調整役」であると同時に、ある意味では「通訳者」でもあります。言語を訳すのではなく、クライアントの「意図」や「期待値」をくみ取り、それを翻訳者に伝える仕事です。
この工程が丁寧に行われている案件ほど質問は少なく、納品までの進行もスムーズになります。結果として、翻訳者にとっても作業しやすい案件となり、クライアント満足度の向上にもつながります。
ただ、この仕事はコーディネーターだけで完結するものではありません。指示を受け取り、その意図をくみ取りながら翻訳作業を進めてくださる翻訳者の方々がいてこそ、案件は成り立っています。
これからも、クライアントの意図と翻訳者の作業のあいだをつなぐ「通訳者」として、目に見えない部分を丁寧に整えていきたいと思います。
MTSより
医薬品・医療機器の翻訳では、クライアントごとの判断基準の違いが、そのまま訳文の品質を左右します。たとえば治験実施計画書の改訂版では、旧版の訳との整合性を優先するのか、最新の用語集に合わせるのかによって、仕上がりが大きく変わります。医療翻訳に特化したMTSでは、コーディネーターがこうした前提を案件ごとに整理し、翻訳者が迷わず作業に集中できる状態を整えています。
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