「訳さない」という選択肢
「翻訳」を辞書で引くと、「ある言語で表された文章を他の言語に置き換えて表すこと」という説明が出てきます(出典:デジタル大辞泉)。「何をいまさら」と思われるかもしれませんが、この「他の言語に置き換えて」という部分が翻訳の足かせになることが時にあります。
The reason for any discrepancies between the CRF and source data should be documented in a note to file.
という原文に対して、次のような訳をいただいたことがあります。
CRFと原データに齟齬がある場合は、その理由を保管用ノートに記載すること。
この訳文で問題となっているのはa note to file⇒保管用ノートの部分です。治験では、この例文のように原データと症例報告書(CRF)のデータが一致しない場合や、ある患者について特定の選択除外基準を免除した場合などの例外的な対応に関する記録をはじめ、所定の様式がない記録、メモなどに残した記録をnote to fileと呼びます(memo to fileとも)。これに該当する日本語は現時点ではなく、治験界隈では英語のまま用いられています。これを上記の訳のように「保管用ノート」としてしまうと、読み手はこれをnote to fileと結びつけることが難しく、「この試験ではそんなノートがあるのかな」と誤った認識を与える恐れがあります。
「言語を置き換えること」が翻訳の基本ではあるものの、このように、あえて翻訳しないで英語のまま残す方が適当な場合もある、というのが今回お伝えしたかったことです。
これだけだと記事として少し寂しいので、メディカル翻訳で見る頻度の多い「英語で残すべき言葉」の例をいくつか挙げておきますね。
【治験関連文書】
Delegation Log*はnote to fileと同じく治験で用いられる文書で、各実施医療機関で治験関連業務を担当する者とその業務の範囲を記載した一覧です。これ以外にも、米国FDAが作成を求めるFinancial Disclosure Formなど、治験関連の国際的な文書は、英語のままで運用されていることが多いです。
* ICHのGCPで作成が求められています。日本のGCP省令では、これに類似したものとして「治験分担医師・治験協力者リスト」がありますが、厳密には違うものなので、Delegation Logの訳語にはならない点に注意してください。
【診断や評価のカテゴリー】
各種学会が、疾患の診断の確実度を設定することがあり、例えばステント血栓症であればAcademic Research Consortiumが、definite/probable/possibleというカテゴリーを定義しており、これらは和文でもそのまま用いられることが多いです。また、ある治療の効果を評価する際にcomplete responder/responder/poor responderのようなカテゴリーを用いることがあり、これも英語のまま日本語の文で用いることが多いです。
【新しい概念】
数年前から耳にするようになった、製薬企業の戦略としてaround the pill/beyond the pillというものがあって、ざっくり言えば「お薬だけ売っていても頭打ちだから、お薬ではない商品やサービス、お薬に付随する商品やサービスを売っていこう」ということなのですが、これも英語のまま日本語に取り入れられています(「アラウンドザピル」と音写されることもありますが)。医学用語でも、新しく登場した概念が、しばらくの間又はいつまでも英語のまま日本でも用いられることがあります。
これらのものを見ていると、
・国際的に足並みを揃える必要がある場合
・日本語で訳が定まっていない場合
・頑張って日本語にしても意味するところが伝わらない、伝わりづらい場合
といった条件に合致すると、英語のまま残すという選択肢が出てくるように思われます。
ただし、筋委縮性側索硬化症(ALS)でもdefinite/probable/possibleという診断カテゴリーがあり、英語のまま用いられることも多いのですが、「確実/可能性大/疑いあり」という日本語も学会で定められており、場合によっては日本語を使用することが求められるかもしれません。また、responderについても、特定の疾患や治験では、「奏効例」のように日本語化する場合があります。
今回の記事全体に関して注意すべきなのは、翻訳(和訳)の基本は「英語から日本語にする」ことであって、「英語のまま残す」のはイレギュラーな対応であるということです。「英語のまま」が適切な状況がある一方で、適訳が存在する可能性も大いにあることを認識し、ここぞという場面で「英語のまま残す」のカードを切れるよう注意してください。
最後までお読みいただき有難うございました。